そもそも人間というのは、面倒くさがりな生き物だと言われています。
だから、つい面倒くさがってしまう自分を「こんな自分はだめだ」なんて否定したり、責めたりする必要はまったくありません。
けれど、もし毎日がなんとなく「つまらないなぁ」と感じているのなら、「面倒くさい」をやめてみるのはひとつの方法であり、けっこう強力な方法だと思っています。
断る理由が「面倒くさい」だけならYesと言ってみる
わたしはあるときから、誘いを断りたい理由が「面倒くさい」だけなら、断るのをやめてみるようにしました。
それまでは「自分の本心を大切にすること」が大事だと数々の本で読んできたので、「面倒くさい」という気持ちを、自分の本心だと勘違いしていたんです。
(「面倒くさい」が理由で断る自分を、正当化したかった……というのもまた、本音。)
でも、面倒くさいというのは人間の性質のひとつ。
もちろん、なにかのサインであることもあるけれど、必ずしも本心とは限らないのだと気づきました。
実際に「面倒くさいなぁ」と思っても行ってみたら、思いがけず楽しい時間が待っていたことは、一度や二度ではありません。
「来てよかった」と思えた経験が増えるたびに、「面倒くさい」の波に飲み込まれないことって大事だなぁと知ったのです。
誘いに限らず、なにかイベントに申し込みたいなぁと思っても、「面倒くさい」だけが理由なら、とりあえず申し込んでみる。
「やっぱりやめようかな」と思っても、キャンセルするほうが面倒くさいから結局行くと、楽しい出会いや新しい発見があったりします。
面倒くさがらずに、誘いに乗ってみる。
面倒くさがらずに、イベントに行ってみる。
面倒くさがらずに、自分から誘ってみる。
「面白そう!」「楽しそう!」だと一瞬でも感じたのに、それと同時に「面倒くさい」もひょっこり顔をのぞかせたら、「面白そう」「楽しそう」と感じた気持ちのほうを選んでみる。
こうした選択が、毎日をずっと楽しくしてくれるのだと思います。
部屋のものを少なくすると重たい腰があがる
わたしが旅するように転々としながら暮らしていた頃、部屋の荷物は当然少なく、その頃は毎日のように出歩いていました。
朝起きてカフェへ行き、ノートを広げながら考えごとをしたり、時にはパソコンを開いて作業を進めたり。
そのあと、部屋に戻って作業をすることもあれば、電車に乗って違う街のカフェに行ったり、行ったことがない場所へ行って冒険してみたり、その地域で行われているイベントを探して、参加することもしょっちゅう。
いま思うと、よくあんなに出歩いていたなぁと思います。
部屋にものが少ないから、部屋のなかにいてもやることも少なく、必然的に外に出るしかなかった。そんな理由に加えて、心も思いっきり軽かったのでしょう。
人は、80%以上の情報を視覚から得ていると言います。
ものが少ないと空間がスッキリし、心もスッキリ軽くなります。心が軽くなると、フットワークも軽くなります。
さらに、ものが少ないと選択肢も減ります。
「あれも持っていかなきゃ」「これも準備しなきゃ」と考えるだけで疲れてしまうことってありますよね。
でも選択肢が少なければ、迷う時間もエネルギーも減る。
そのぶん「やってみよう」「行ってみよう」と行動に移しやすくなるのはないでしょうか。
だから、「最近、面倒くさがりぎみになっているなぁ」と感じたときは、部屋のものをうんと減らすようにしています。
ラクと楽しいはイコールではない
「面倒くさい」の声に従うのは、とってもラク。
けれど、ラクと楽しいってイコールではありませんよね。
同じ漢字が使われているのに、なんだか不思議。
出かける、出かけない、誘いに乗る、乗らないに限らず、学びたいことがあるけれど「面倒くさい」から明日からやろう、来週からやろう、来月からやろう……と先延ばしにしたり。なんてことは、わたしは今でもあります。
それでも、ひとまず1ページだけでもページをめくってみたり、動画を見てみたり。
そんな小さな一歩でも踏み出せば、面倒くささの向こうには思いがけない新しい世界や、ワクワクが待っているのではないでしょうか。