できれば不快なことは感じたくないし、できることなら嫌な出来事も起こってほしくない。
でも、ある日「不快があるからこそ“幸せ”を感じられるんだ」と気づいたことがありました。今日はそのお話です。
不快が気づかせてくれた思いがけない幸せ
ある年の春、住んでいるマンションで、何十年に一度という大規模な外壁修繕工事が始まりました。
私は在宅ということもあり、ずっと家にいます。
「音がうるさいと集中できないかも」「ワークスペースを借りないといけないかなぁ」と心配していたのですが、実際に工事が始まってみると、もっと気になることがありました。
それは、窓から差し込む光が入らないこと。
マンション全体が黒いネットで覆われてしまったのです。
街を歩いていて時々見かける、あの黒い幕の中に、自分が暮らすことになるとは。
しかし実際には、部屋は真っ暗というわけではなく、うっすら光は届くようになっていてひと安心。
それでも、午後1時くらいになると薄暗く、3時にはもう照明をつけなければいけない暗さ……。外が晴れていても、曇っているのだと錯覚してしまうようなレベルです。
また、ベランダに作業員の方がいる日は、そもそもカーテンを閉めなくてはいけません。
「はぁ、これが何ヶ月もつづくのかぁ」とため息が出たのを覚えています。
必要な工事だから、仕方がないこと。
外では作業員の方が、毎日一生懸命に作業をしてくださっていることもわかっています。
この状況を受け入れるしかありませんし、
受け入れられたのは、「この月には工事が終わる」というゴールが見えているからです。
これが「いつ終わるかわからない」状態だったら、そうはいかなかったでしょう。
幸い、心配していた音は、足場の組み立て時以外にはそれほど大きな音はなく長くは続きませんでした。部屋の暗さにもそのうち慣れるもので、いつも通り在宅で仕事をつづけること数ヶ月……。
ついに、マンションの掲示板に「来週から足場の解体が行われる」という案内が!
その文字を目にした瞬間、わたしは心のなかで「やったー!」と叫んでいました。
宝くじで高額当選したことはないけれど、宝くじにでも当たったかのような喜びようで、”ルンルン”という音が聞こえてきそうなほどルンルン気分。「もうすぐこの黒いネットがなくなるんだ〜!」と、張り紙を見た日から数日、ものすごくご機嫌で過ごしていたのです。
そしてこのとき、気づきました。
この喜びは、工事がなかったら生まれなかったものであると。部屋が暗いというネガティブな要素を体験したからこそ感じられる喜びなのだと。
そしてついに、黒いネットが外された翌朝、カーテンを開けると明るい日差しが差し込み、「なんて幸せなのだろう!」と幸せをかみしめました。
部屋に光が入るなんて、工事前は当たり前だったこと。特別幸せだと感じたことはありませんでした。それに幸せを感じられたのは、間違いなく“不快”があったからです。
疲れた日のお風呂&ビールが最高に気持ちがいい
さて、わたしは歩くのが好きです。
先日も、朝から夕方までおでかけしていて、スマホの歩数計をみると3万歩超え。
本当は午後には帰ろうと思っていたのですが、「まだそんなに疲れてないな」と思い、もう少し歩くことにしたのです。
そう、私は疲れたかったのです。
疲れた日のお風呂が最高に気持ちがよくて、そのあとにビールを飲むのが最高に幸せだということを知っているから。
これはランニングも同じで、5km走るくらいなら、8km、10km走ったほうが、そのあとのお風呂が断然に気持ちがいい。
だからしんどくても、もう少し、もう少しと走りたくなってしまう。
疲れることは不快とは少し違うけれど、その先に大きな“快”が待っているとわかっているからこそ、あえてしんどい方を選んでしまうのです。
幸せの大きさは振り幅で決まる。
だから、何も起こらないことの幸せをなかなか感じづらいのかもしれません。
そして、ときは夏。
うだるような暑さの中で、ふっと吹く風が気持ちよく感じられる瞬間もまた、不快があるからこそ生まれる心地よさなのだと感じる今日このごろです。
何も起きない日にも幸せが潜んでいる
よく、「なにも起きないことが幸せ」といいます。
外壁工事を経験してあらためて思ったのは、朝起きてカーテンを開け、部屋いっぱいに光が差し込む――そんな何気ない日常が、実はとても尊いということ。
何も起きない日は、特別なことがないようでいて、じつはすごく贅沢な一日なのかもしれない。
何事もなく過ぎる時間のなかに、じんわりとした幸せがちゃんと潜んでいるのだと、この件であらためて気づきました。